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2014/09/16

ポール・マッカートニー&ウイングス バンド・オン・ザ・ラン (Paul McCartney and Wings Band On The Run)

録画した日〔2014/8/2:チャンネル銀河〕

2010年に英国ITVで放送されたドキュメンタリー。
名盤「Band On The Run」の製作過程をポールマッカートニーが振り返ります。
ソロになって3年、当時のポールは三十路を過ぎたところ。
牧場で暮らしたりアポなし子連れライブを敢行したりと気ままな音楽活動をしていましたが、こと創作活動となると「Beatles超え」という超ド級のノルマが常に課せられていました。
バンド・オン・ザ・ランはそんな「そろそろ一発」的ムードが高まる1973年暮れにリリース。
ラスト曲「西暦1985年(Nineteen Hundred and Eighty Five)」は12年後の未来を歌っていた事となります。
成果としてポール会心の一撃となったこのアルバムですが、その製作過程は波乱に富んでて実にドラマチック、要するに無茶苦茶だったようです。
波乱の根源はポールがナイジェリアの「ラゴス」という街を録音地に選んだ事。
このワケの分からんアフリカ合宿にドラムとギターが造反。出発前日に2人のボイコット劇が勃発します。
こうして結局ラゴスに赴いたのは、ポール&嫁リンダ(音楽ド素人)とデニーレイン(ギター他いろいろできる)の3人だけとなってしまいました。
80年代新日を彷彿とさせる造反離脱劇を「説明をする手間が省けた」と超解釈するポール。
この一本突き抜けた天真爛漫さは「どうってことねぇよ」「いい大掃除ができた」の猪木イズムに通じるものがあります。
ポールイズムの凄いところは、適当な猪木イズムと違いこれらを決して大風呂敷に終わらせずドラムから何から全部実践してしまうハードワークっぷり。
やろうと思えば何でも自分で、それも他を圧倒するハイレベルでこなしてしまう…。サラリーマンとしては上司にも部下にもしたくない天才野郎です。
英米に比べると圧倒的に治安の悪いラゴス。
自由気ままなポールはやっぱりというか何というか強盗に遭遇し、しかもよりによって「デモテープ」を強奪されてしまいました。
ある意味メンバー離脱より痛いバンドの財産喪失。アフリカ合宿もこれで一巻の終わりと思われたのですが…。
この苦境に「とりあえずメモってあったから」と軽くリカバリに取り掛かったポール。
もはや凡人には理解不能の天才ポールの行動力学。だったらもう最初っから1人で全部やれよという話ではないでしょうか。
この他、そもそもスタジオ自体がなかった(!)などトラブル山積のラゴス合宿。
その首謀者ポールは何が起こってもノープロブレムで全然平気と思いきや、ある日遂になんとストレスで体調を崩してしまったとの事です。
にわかには信じがたい天衣無縫男のストレス禍。まあ本人がそう言うんだからそうなんでしょう。
しかしこのピンチにおいても「意識が戻ると気持ちイイ」などとトリップ的な意味でやっぱりどこ吹く風。もはや心配するのも馬鹿馬鹿しくなってしまいます。
そんな地獄のラゴス合宿で作り上げたアルバムは、いろいろ手を加えて年末にリリース。
その脱獄風ジャケ写は、俳優や司会者、プロボクサーなど当時のいわゆるセレブ連中に声を掛け10月に撮影されたんだそうです。
私はこれが全員ウイングスのメンバーなんだとずっと思ってました。
実際にセールスに火が着いたのはリリースから半年ぐらい経った翌1974年の夏頃から。
今となっては文句なしの名盤ですが、当時はジワジワと良さが浸透するスルメ系アルバムという位置付けだったのでしょうか。
ちなみにポールの一番のお気に入りは「レット・ミー・ロール・イット(Let Me Roll It)」だそうです。
そもそもが無理な「Beatles超え」はできなかったものの、解散3年にして「Beatles級」の結果を残したポール。
それにしても、はや30歳にして過去の自分と対峙を迫られるプレッシャーが如何ほどなのか、我々市井の人間には想像ができません。
でも幾多の天然エピソードを知るにつけ、やっぱりこの人は深い事は考えてなかったのでは?、という感も…。
むしろぜひともそうであってほしい。
「バンド・オン・ザ・ラン」は、おおらかな時代におおらかな天才が作った名盤なんだと思っています。